継体天皇|応神天皇系の王権へと切り替わり誕生した新王朝

2019年2月17日

武烈天皇崩御の後、後継探しに奔走した重臣たち。
天皇の後継問題で悩み抜いた結果、重臣たちが皇位継承の話を持ちかけたのは、応神天皇6世の孫であった男大迹天皇(おおどのすめらみこと)という人物でした。

第26代 継体天皇(けいたい)

継体天皇【諡号】 男大迹天皇(おおどのすめらみこと)
【異称】 彦太尊(ひこふとのみこと)
【生没】 450年~531年
【在位】 507年~531年
【父】 彦主人王(応神天皇5世孫)
【母】 振媛(垂仁天皇7世孫)
【陵】 三島藍野陵(大阪府茨木市太田)

第25代武烈天皇は春日郎子を皇后に迎えたものの、後継を作らぬまま、そして後継者選びもせぬまま崩御してしまわれた。
仁賢天皇亡き後、平群真鳥・鮪(へぐりのまとり・しび)親子を討伐して武烈天皇を即位させ、重臣として活躍した大伴金村(おおとものかなむら)らは再び「後継問題」に悩まされました。

考えぬいた末に重臣らが向かったのは越前国高向。
現在の福井県坂井市丸岡町高椋に向かい、応神天皇6世の孫である男大迹尊(おおどのみこと)に、皇位継承の話を持ちかけました。

突然の皇位継承話に男大迹尊は当初辞退するものの、重臣らは皇位を司る霊璽を奉って再度皇位継承を懇願し、男大迹尊が折れて即位することとなりました。

男大迹尊が継体天皇として即位したのは現在の大阪府枚方市樟葉宮という場所でした。

継体天皇継体天皇は歴代天皇がおいた大和盆地を拠点とせず、現在の枚方市淀川流域を拠点としたといわれています。
枚方市楠葉丘に鎮座する交野天神社付近には「此付近継体天皇樟葉宮地」の石碑があり、淀川水系初の古代政権誕生の地となった樟葉宮(くすばのみや)の跡地があります。
継体天皇はこの地を拠点に港の整備を行い、多くの船を停泊させ、百済との外交関係により、文化や技術の促進を図ったのでしょう。

しかし継体天皇までの系図が不明であり、出自も明確に伝えられておらず、応神天皇から継体天皇までの系図は鎌倉時代に作成された『釈日本紀』にほんの少しの記述があるのみ。

はっきりとした証拠は未だないままです。

他にも天皇系図に名を連ねる人物はいたであろうにも関わらず、なぜ遠い越前国に住んでいた応神天皇6世の孫に、重臣たちが皇位継承を願いでたのか?

血の繋がりがもっと濃い人物はいたであろう、謎が残る皇位継承だと言えるでしょう。

さらに継体天皇が大和入りするのには20年もの歳月がかかっていたことも、謎深い。

この謎多き継体天皇の即位に関しては、現在ではとある仮説が有力とされています。
武烈天皇が崩御した後、王家と清王朝の間に20年にも及ぶ皇位継承の抗争が勃発していたのではないか。
長い戦いを経て、継体天皇が新王朝として政権を奪ったのではないか?

史実によると、継体天皇は即位する以前から王者としての風格を兼ね備えていたとされています。

継体天皇が生まれ育った越前国では、継体天皇が治水工事や干拓を行い、稲作や養蚕を起こしたというエピソードが伝わっており、地域ではまるで神のように崇められています。

継体天皇は81歳で崩御されていますが、『百済本記』では継体天皇崩御の際に皇太子や皇子らも亡くなったとされているため、継体天皇崩御には政変が関わっていたのではないかともされており、この時代は政権争奪戦が激しかったとも予想されます。

継体天皇は婿入りしていた!?

継体天皇が妻としたのは、手白香皇女(たしらかのひめみこ)という女性で、仁賢天皇の娘でもありました。
応神天皇6世の孫という不明確な出自があった継体天皇は、実は仁賢天皇の娘に婿入りしたことで、皇位継承の座を手にできたのではないか?とも指摘されています。

過去に即位するために皇女に婿入りした例は珍しくないことであり、さらに継体天皇と皇后の間に生まれた欽明は、のちに29代天皇として即位しています。

武烈天皇崩御の後、継体天皇が即位するまでに動乱の時代を経験したと思われる大和王朝。
雄略天皇、そして仁賢天皇の血筋である手白香皇女が皇后となったことで、以前の王統が天皇として再び君臨したことになる。

継体天皇のエピソード

男大迹王と照日の前
男大迹王と照日の前

継体天皇が生まれ育った越前国というのは、広大な湿原があったことから農耕だけでなく住居にも不向きとされていました。
継体天皇は故郷を治めるにあたって、足羽山に大宮地之霊(おおみやどころのみたま)を祀るための社殿をたて、守護神として奉りました。
現在も残る足羽神社です。

さらに故郷の地形を調査させて九頭竜川・足羽川・日野川という三大河川を作るほどの大規模治水工事を行った継体天皇。
その業績により湿原が干拓となり、越前平野に農耕ができる広大な土地と住居地ができました。

さらに港を作るように命じた継体天皇。
水運を作り出し、採石や製紙、稲作に養蚕を起こすなど越前における産業を推し進めました。

即位のために越前から離れることが決まると、自身の生霊を足羽神社へと鎮め、馬来田皇女(うまくだのひめみこ)という御子を斎主にして越前国を任せました。

越前国においては継体天皇は越前開闢の御祖神としても崇められているのです。

能の演題として登場する「花筐」

花筐能の演題の1つである「花筐」は、継体天皇が主人公となっています。

<あらすじ>
武烈天皇亡き後、後継者となった継体天皇。
寵愛する照日へと花籠と手紙を贈り、上京しました。
継体天皇に恋い焦がれた照日は侍女と共に姿を狂女へと変えて、継体天皇の後をおって都へ向かいます。
狂女となった照日が現れた場所は、紅葉見物の行幸の目の前。
天皇の従者が狂女の持つ篭を撃ち落としたことで狂女が狂いながら、漢の武帝と李夫人の物語を舞いました。
すると継体天皇は、従者が撃ち落とした篭が、以前照日に贈った花籠であることに気づき、狂女の招待に気づきました。
そうして照日は継体天皇に召され、再び一緒になることができました。
その後、二人の間には子供が2人産まれ、のちに安閑天皇として即位します。

継体天皇の御陵

継体天皇の御陵は、正式に定められているのは大阪府茨木市にある三嶋藍野陵です。
「太田茶臼山古墳」という遺跡名でも知られており、およそ227mある前方後円墳となっています。
けれどもこの古墳は、作られたのが5世紀中頃ではないかとも言われているのです。

一説には大阪府高槻市郡家新町にある今城塚古墳が継体天皇の御陵ではないかとも言われています。
およそ190mの前方後円墳で、6世紀前半に作られたとみられており、時期的にはこちらの方が継体天皇の御陵である可能性が高いのだそうな。
今城塚古墳は宮内庁から正式に定められていないため、1997年に立ち入り調査が行われ、発掘調査も行われました。
この古墳は、被葬者が生きているうちに作られた寿陵ではないかとされています。

発掘調査の結果、家型石棺の破片らしき石片が3種類見つかっており、その3種類は以下のような特徴がありました。

  • 熊本県宇土市近辺で採掘される阿蘇溶結凝灰岩のピンク石
  • 奈良県と大阪府の県境にある二上山の溶結凝灰岩の白石
  • 兵庫県高砂市から採掘される竜山石

おそらくこの3つは、3つの石棺に使われたのではないかとも言われています。

特に最後の竜山石は代々王族の棺の材料として使われてきた歴史があります。
けれども今城塚古墳は16世紀後半に起きた伏見大地震の影響で壊れたのではないかとされています。